【社会派】ジャパンの車窓からの希望
昔は旧津和野藩と旧萩藩を旅行して、
自然と歴史と文化と時々お酒と母性溢れるスナックで、
心を癒した後、新山口から新幹線で東京まで帰路についた。
送り盆という頃合いだけに自由席の乗車率は優に100%を超え、
新大阪駅までは立ちだった。
五輪.jpという神サイトのせいで、
早速ソフトバンクから低速の通知が来て、
もはやインターネットを利用する権利を剥奪された私は、
いそいそと、読書に耽るのだが幸福の王子様というそれは童話であった。
新大阪でどっと人が降り、
嬉し泣きしながらおじさんの隣の席に座り、
さらにそこは窓際の席ということでさらに少年のような大人はむせび泣いた。
新山口駅で買った、
ワンカップ酒の山頭火という無頼派の詩人の名が名になっている日本酒と、
山口県の特産であるちくわにカマンベールチーズが入った文明風情を刺激する、
至極のおつまみを頂きながら特に思いにふけずに、ただただその贅を味わいつくしていた。
京都駅に着く頃には、
ちくわ3本を胃に流し込み飲み食べ終えた。
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・・
・・・
暇だった。
あと一冊、文庫のストックはあったのだが、
酔いも回り、もはや読む気力は残っていない。
車窓から外を眺めた。
夕暮れに馴染むその景色は、
ドナウ川の畔でもなければ長閑な田園風景もなくTV番組に適さない高速さで、
それでもまあまあ落ち着いた家屋に畑、時々神社は見るものをほっこりさせる。
東海道線はそれでも圧倒的な自然というより、
そこはかとなく現れる沿線上の凝集された社会、経済が垣間見られる。
東京に近づくにつれ、
だんだんと家屋からマンションや高層ビルが目に入ってくるようになる。
と、私はふと思う。
なぜ、車窓から外を眺めているのだと。
何を目的に?
私はきりと気づいてしまった。
あるものを追い求めていることを。
それは、
ジョージだ。
私はジョージを希求している。
未だ嘗て見たことのない、
暮れなずむ社屋の窓から覗き込める部屋の中、
その中で、二人が二人の体を重ね合わせるジョージという絶景を。
私は、もしやといういう風に望んでいる。
カーテンをしている部屋は無論、論外である。
この夏場、カーテンコールのかからないその部屋の奥で、
万に一つでもあるんではないか、というそのジョージを私は期待している。
仮にジョージがいたとして、
そのジョージももはや沿線上という立地から、
私のような不躾者で車内に隠れた変質者を警戒しているジョージもいるかもしれない。
でも、もしかしたらそんなことは御構い無し、
ジョージという時空を超えた感情の交錯、その刹那は何者も拒まない、
そんな沿線上であってもG線上のアリアみたいなジョージはいないものか。
そしていま、
ジョージという宿命的な興奮と、
その一瞬という刹那を捉えたい私の闘争が始まるのだった。
仮に仮にジョージがあったとして、
新幹線の車窓からそれを見、定める瞬間は時間にして僅か平均0.25秒。
さらに、視界という扇型上のその線形の中で、
我々が考えるべき、戦略がそこにある。
内か外だ。
内。
それは内だけに、
見える範囲が狭いが一方で、
仮ジョージの姿も近い分、象が大きい。
認識の許容範囲が広範で、
細部まで認識できるという興奮がそこにある。
しかし新幹線の高速を考えると、
内は近い分、可視面積が狭く時間的にも短い、
像がより瞬間で過ぎ去るというデメリットがそこにある。
外。
一方、外は扇型の外周に近い分、
高速でも面積は内より大きく取れるため、
長時間にわたって視認する時間が取れるというメリットがある。
しかし、仮ジョージの姿があったとしても像は小さく、
視認の時間的制約は緩慢になるものの確かにジョージであったと、
認識や判断を根拠付けるには象があまりにも小さいというデメリットがある。
二兎追うものは二兎を得ず、
孫子の兵法に習い戦略的にどちらかを略さなければ、
未だ見ぬそのジョージにたどり着けない、究極の選択が新幹線の高速の中で行われる。
そして、私はついに、、、、、
新横浜に、
品川に、
東京駅についたのだった。
ジョージはまた、
幻として消えた。
赤子を揺する母の姿だけは、
しっかりと目に焼き付けたがしかし。
私はいつの日かジョージという希望を、
この眼に捉えたい。
そして、私は今日も車窓を眺める。
奥原希望選手、金メダル目指して頑張って下さい( ^ω^ )