【捨て猫】善と悪の中間子、MMR
善と悪を分かつもの
そもそも善ってなんだ悪ってなんだ
何をもって善を規定し悪を規定できるのか
少なくとも善も悪も一律的なものでなく、
極めて相対的に客観的に評価されたり感じられるもので、
自らが自らを善、悪であると言うことや人は少ないであろう。
自分は絶対的な善悪である、というのは、ラスボスぐらいだ。
ああ〜これは善だ、これは悪だと外からみて感じることはあっても、
君は善だ、君は悪だ、と言われたらそれは納得いかない。
つまり絶対的、あるいは主観的な善や悪は自らに宿り、
あんたの正義は何処にあるんだ?という感じで、
これが善だと悪だと信じて行動するものであるとする。
ちょっと待て、そもそも悪だと信じて行動する人はいるのであろうか。
善だと信じてやってきた行動が、
実は周りから悪に見られるということはある。
善≒悪
なるものは、一体どういうものなのであろうか。
例えば映画やアニメで、
二人が対決する場面があったとする。
一方は、恋人を守るために、
もう一方は、世界の平和を守るために
一方は、自分の記憶を守るために
もう一方は、すべての記憶を守るために、書き換えないために
根源的な対決の欲求や目的がそこにあったとして、
一方ともう一方を分かつもの、つまりどちらが一体、
善なのか悪なのか物語のストリー上そのような決定や判断をするとすると、
須らくそれは、もう一方だ。
なぜ、恋人を守ること自体素敵なことになるのに、
それよりすべてを守ろうとするものと相対すると、
それは時として悪に見えることがあるのか。
守ることの大小によって、あるいは範囲によって、
守るそれ自体は素晴らしいことなのに区別がつくのか。
社会に出るとたくさんの守ることがあるし想定される。
生命、精神、家族、恋人、友達、仲間、記憶、
世俗的には、地位やプライドやお金、肩書き、時間、記録
或いは、もしそこにあっとして己が信念。
もし、守る、MMRが、
最終的な善悪の二元を分かつのなら、
一体私は、何を守ることを捨て、何を最後に守るのだろう。
守ることを捨て、
何かに向かって突き進むことが美しいのか、
それは、自暴という妄想なのか、最終的には分からない。
正邪の行進は、歴史となって今日も続いていく。