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黒五八白の捨て猫たち

答えのその先、深淵に入り込んだ言の葉達を、見境もなく捨てていきます。問うとすれば、それは人の探究心だけ。

【捨て猫小鉢】“ 理解 ”ということについて考えてみる

 

個人的に大好きな予防医学者「石川善樹さん」。

 

逞しい研究者魂というかある程度本ブログのテーマである、

探究心という点においていつも非常に刺激を受けています。

 

 

石川先生による予防医療のなにがし、

というセッションを以前伺っていた時に、

その登壇のテーマとは別に、個人的な興味をお話頂きました。

 

曰く、今「理解」ということに関心があり、

理解とは何か?という問いに対して研究をされているということでした。

 

もうかれこれ4カ月以上も前のことなので、

石川先生は現在、理解、ということについて、

一定程度、理解に達しているかもしれません。

 

が、私自身も理解とは何か?というその根源的なテーマについて、

そのセッション以降、頭の片隅に置いては思い出し、

暇な時間に考えていました。

 

今回は最終的に至った理解を表したいと思うという戯言。

 

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二足歩行を主とする人間が、

歩む道は骨格的に直線状であるという理解。

 

その人間が生存防衛本能として、

縦軸だけでなく横軸に動き向きを変え、

面を意識したり動けるようになったという理解。

 

そして、川の流れる方向、

影の長さ短さ動植物の動線、

山、空、天体、自らの目線という、

高さが加わった三次元までの理解。

 

三次元までたどり着いたその理解は、

人間をある種、空間的な認知能力という自由を与えた。

 

自由は逆説的に、

境界と目標、目的を備え、

例えば領土、区画を整備させ、

そこに新たな“時間感覚”や季節感を磨かせていく。

 

例えばこれらの理解により、

生きるために狩猟するという宿命を超え、

灌漑、農耕、耕作まで、出来る段階までできるようになったとする。

 

ところが、

今までの次元を理解したとしても、

灌漑やら農耕やらが1人でに自己完結することは少ない。

 

時間を理解しそれを引き連れ、

さらなる生産性、効率性を求めた時、

自分と100%は分かり合えない他者を必要とする。

 

共有とか社会とか協力には、

他者が必要であり、そのために観察という概念が加わる。

他者は人、動植物、自然、すべての有機的な存在を含有するだろう。

 

他者がする選択の最終ラインは、

自主でも強制であっても少なからず、

感情という次元が選択の最終ボタンとなるが、

一方で、他者との間、共感覚でつながる紐帯は極めてか細い。

 

感情を理解し必要とする時、

その感情を他者に強制するのか、

賛同させるのか盲信させるのかは、分からない。

 

他者の感情の理解が、

殆ど並行であるがために難しく、

しかし絶対的に必要な理解の切り口として、

立ちはだかることはおおよそ歴史的に見ても自明である。

 

感情を理解し利用できるようなり、

空間演出により個を包括して多を動かした結果わかることは、

そこにある個を超えた集合の力と逆説的だが分散による個の弱体化、という理解。

 

集合したことによる、集合知の強さと頑健さ、

集合×時間軸を拡張することによって向上する想像実現性。

 

しかし集合によって、

多様化し分権化した個を抑え揃えるため、

法律という新たな枠組みをつくってきた歴史がそこにある。

 

やがて、その集合知は疲弊し、

集合知を超えた個の力の台頭と、

それを進化とする定義、許容が広がっていく。

 

新たな進化へのシフトが呼ぶ、

既成概念の収縮速度や新たな概念に対する熱狂、考察、行動への理解。

 

最終的に集合があったからこそ生まれた、

宿命的な進化の波及的な社会や環境、自然への影響、

その進化の道筋の正邪を最終的に問い判断する人の解釈という、

過去現在において絶対的な答えのない創造的な探求。

 

 

 

人は果たして何から学び、理解するのか。

 

 

論理的な構造か、経験的な実際か、それもまた運命か、

はたまた宿命的な想起という内在する記録か記憶か。

 

論理や科学は法則という安定的で統一的な理解を提供する一方、

順序を経て高次に或はミクロの暴力的な世界において、

それは通用しないことも、数史上、証明されている。

 

故に、理解の発端は理性という制御ではなく、

好奇心や探究心という感情に発露があり、

それを等質的に補完するのが理性であって、

 

根源的な理解に要請されるのは解釈であり、

論理でもなく方程式でもない知情意に舞い戻った時、

その根拠を支えてくれるのは歴史であり文化であり自然であり、

網羅的な統合と融和の先にある直観、解釈、悟性なのかもしれない。

 

 

そして理解の前提は、

自分はその対象を理解していないという自覚と、

理解していないものは理解していないという謙虚な姿勢にある。

 

理解の深度は、

先に述べた段階的な順序によって、

ある程度規定され得るものでその順序こそが、

理解の順序であり、理解そのものであるともいえるかもしれない。

 

なぜならば、理解それ自体が、

感情の理解を突き進めある深度に及んでいくと、

解釈といった正誤が明確に断定できない領域、

どんな幾何や方程式でも解けない限界に達するからだ。

 

その場合、ある高次の段階に迫った理解というのは、

それ自体が数式で正しい理解と説明することはできない。

 

将来や未来や願望的な広がりを持たせることはできても、

根源的なテーマや中心は無機質な理解の世界にはおそらくない。 

 

だから、それが理解であり正解である、と言えることは極めて難しい。

 

では、どの段階の理解までは正しかったのか?

 

およそ順序を理解していれば、

数式でも解の出せる初段階の理解が、そもそもの根源であったと理解できる。

 

その根源的な理解は正しいと立ち戻れると考えれば、

理解の元もその先に対しても恐怖に慄くことはない。

 

理解は少なくとも順序の範疇にあり

その順序の範疇は理性ではなく感情にあろう。