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黒五八白の捨て猫たち

答えのその先、深淵に入り込んだ言の葉達を、見境もなく捨てていきます。問うとすれば、それは人の探究心だけ。

【哀悼】否定する恐怖を超えて否定しなければならない時

 

否定できるとすると、

それはどのような場合か

 

あらゆる寛容という美徳が、

不寛容として否定しなければならないと

確信をさせるもの、それは何であろうか?

 

 

四則演算のような、

誤りが明確である場合には、

指摘したり正すのはある程度、優しい。

 

否定は、正誤ではない。

否定の対象は事実ではない、

多くの場合、対象は人か人に近しいものである。

 

人を否定する、そんなことできるのであろうか。

 

否定はできないのではないか?

という仮説を信じたい。

 

が、それでは何も進まないし、

そもそもそこに疑問があるので、

 

否定できるとすると、それはどんな時か?

 

を考察したい。

 

思想や表現、生きる自由は法律ではなく、

人間の意思のような根源的に持って生まれたものをだとすると

 

仮に否定したいとしても、

その対象の人の何がし、

その何がしに至る背景の深層、

意思の原点や源泉にまで辿り着かなければ、

その人をその人足らしめているものを、

少なくとも人は、否定はできないであろう。

 

というのが否定できるの前提にある、とする。

 

そして、その源泉にたどり着き、

その対象の生き様や表現の原点である、

その人固有の思想や解釈というものを否定する時、

 

それは恐らく、否定できるという可能性ではなくて、

否定する目的や固有のものを超えた全体の目的を考えた時に、

むしろ否定しなければいけないという強い意思が必要となりそうだ。

 

というのは、会社の組織の話をしている時に、

会社のために個人を否定しなければいけない時もある、

というのが想起の契機となっている。

 

否定しなければならない、

というのはどういうことであろうか

 

これが個人の生存欲求、

個人の世界で完結するのであれば、

それは他者の否定が踏み込む権利も垣間もない。

 

すると、その信条や解釈を否定できるのは、

その個の空間を超越した時、 その解釈が他者や全体利益に対して、

悪なるものは否定、 正なるものは、肯定、に果たしてなるのだろうか。

 

全体利益に対して、 どんな解釈が正か邪か、

否定側の根拠となる絶対的な区別ある正解があるのであろうか。

 

 

 

 

恐らく、、、

 

 

それはない。

 

 

そもそも、全体利益とは何か?

これは簡単なようで難しい解釈だろう。だがこれは思考をやめた。

 

現在と未来における、

全体利益を踏まえた個人の解釈、

否定はできないように感じるが、 否定できない、

という結論は、 全てを水泡に虚無に葬りさることになる。

 

なぜならば、 否定できない(してはならない)とすれば、

全体利益という概念、 個人のそれに伴う信条や解釈自体が、

極論で言えば、必要ない、要らないということに帰結することになるからだ。

 

何が正しいか分からないが、

自然や生命を救った解釈や発想、創造もあるだろうし、

それはおおよそ歴史がそれを証明していると言いたいのだが、言えない。

 

否定することができない、

という殻にこもり個や自己の内に哀悼の意を称するか、

自分が心底真剣に考え行動してきた全体利益への信念を持って否定するか。

 

その信念を経て実現した何かを実感として拡げ、

他者の否定という恐れや地獄を自らが受容し乗り越え、

真剣な覚悟と決意のままに否定するのか。

 

否定に迫られるのは、自身にあり、しかし利他にあり。

他者への信用・信頼の有無は全体を前にしては付け入る隙もなく、

否定のパートナーは、全体を願う己の覚悟になるのかもしれない。

 

しかし、

否定した後も繰り返される否定という自らの判断への、

亡きカントにつぐ判断力批判純粋理性批判のような狂おしい省察や批判の繰り返し

 

それは、人生というとてつもなく長かろう、

一生を通して連綿として続いてく

 

 

 

 

 

 

 

はあ