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黒五八白の捨て猫たち

答えのその先、深淵に入り込んだ言の葉達を、見境もなく捨てていきます。問うとすれば、それは人の探究心だけ。

【忘却の彼方】集中とは何か?に対する追憶の先

 

 

 

 

真面目に取り組みたいことは何であれ

 

それに対して、

 

集中している

 

という状態が理想なのは分かる。

 

が、果たして集中とは何なのであろうか?

 

 

集中している状態とは、

どのような状態か一言で説明せよ

 

と言われたら、

 

三者三様だが似たりよったりの、

解釈が出てきそうだ

 

 

が、そもそも集中が何か?

と聞かれたら言葉に詰まりそうだ。

 

 

予防医療の権威で、

計算創造学など活動的に、

新たな学問領域を開拓している、

石川善樹先生。大好きな先生だ。

 

絶好調をテーマに、

考え方や方策を登壇頂いた。

 

その中のキーワードの1つが、

 

 

集中。

 

 

 

遊びに集中

スポーツに集中

勝負に集中

勉強に集中

仕事に集中

 

 

集中は様々な場面で顔を出す。

 

 

集中して仕事に入る方法として、

 

◆仕事するイメージをしてからデスクに座る

 

ということが石川先生より、

紹介されていた。

 

仮説の言語化、という意味で、

集中を解釈する目標に対して、

考えるヒントとなる契機となった。

 

全てが最終的には不確実だとしても、

反射などの生理的な運動や行動を除いては、

目的に向かった具体行動や、

その先の行動や障害や理想など、

大枠でちょっとした未来の青写真を描く、つまりイメージした方が集中できる。

 

予測に対する行動が順応性を帯びるのと同じ原理に近いであろう。

 

そしてイメージは永遠と

休むまで繰り返される。

 

つまり、仕事の入りがイメージすることによって集中できても、

持続的な集中を得るためには、

次の仕事に向かうためのイメージが必要になる、ということだ。

 

始めのイメージがどれだけ先を見越しているか? 

 

によって、イメージの多寡、

多少の差異はあるだろうが。

 

イメージが集中にとって十分条件だとする。

 

とそのイメージは、

そもそもどうしたらできるのだろうか。

 

 

ここで全くの無を考えると、

無の状態ではイメージすらできない、ということがわかる。

 

イメージは想起に近く、

イメージの拠り所が必ずある。

 

それは、知識や経験、

そしてそれらを含有するものだ。

すなわち、記憶である。

 

記憶があるからイメージが出来る、

とするとどのような記憶の保存が、

最もイメージしやすい記憶になるのだろうか。

 

ここで、閑話休題

 

集中の持続についての研究は、

専ら、一流のスポーツ選手を対象に、

観察し分析し科学という法則らしいことを見つけているそうだ。

 

その中で、

持ち出されたのが、

テニス界のレジェンド、

ロジャーフェデラーの試合中の風景。

 

テニスは、長い試合で4時間以上にも及ぶスポーツだが、

一方その内実は、プレイ中以外の時間が多くを占めているという。

 

プレイ以外の時間をどのように、

次の或は全体の集中を保つ為に、

使っているかは一流の選手ならではがあるらしい。

 

曰く、フェデラーは、

1プレイごとに一喜一憂はありつつ、

1プレイが終わると即座に後ろを向き、

タオルを受け取り顔を拭き、

その後コートに立ち向かいながら、

ガットを見つめる、というルーティンの中で、

前のプレイをいわば忘れ、これから起こる今に集中する、

そんなルーティンを必ずプレイ外の時間で行っているという。

 

確かに、どんなにすごいプレーや、

相手にやられた場面で刹那的に、

感情を表に出すことはあっても、

コートに背を向けると、

その表情は冷静そのものである。

 

 

この事実や研究者の考察から、

何が考察できるか、記憶との関連を考えると、

それはフェデラーの忘れると表現したそれだ。

 

フェデラーは、

1プレイ1プレイを集中するために、

前のプレイを本当に忘れてしまったのだろうか?

 

それは限りなく否であろう。

 

少なくとも、全ては忘れられない。

 

極論にみえるが、全てを忘れたらそこに立てない。

 

少なくともスコアは記憶されているはずだし、

これまでのセットカウントやゲーム展開は記憶されている可能性が高い。

 

何かを記憶しているからこそ、

自分のゲーム戦略があるだろうし、

ポイントを取るための戦術がイメージでき、集中してプレイに臨めるからだ。

 

ゆえに、全てを忘れてはいないが、

何かを忘れているとしたら、

それは何を忘れているのか?

 

それは恐らく、

記憶の構成内容の殆どである、

事実に付随した感情であろう。

 

相手に取られたポイントだとして、

 

 

 ①

自分の力より相手が勝っていたと納得のできるポイント

 

と、

 

 ②

自分のミスによって相手に与えてしまったポイント

 

 

失点という事実は同じでも、

落ち込む或は自分に憤る、など、

感覚の揺れ幅が大きいのは後者だ。

 

しかし、そうした負の感情は、

現時点で行われている勝負に対して、

必要かと言えば決してそうではない、、、

 

怒りの感情が時に大きな力を緊張を生み出しても、

恐らく当事者でも歴史的にも怒りのパワーは長続きしないことが分かっている。

 

それは経験的にも感覚的にも本人が1番分かっている。

 

事実に基づいた感情の高低や強弱は、

筋肉の緊張につながりプレーの1つ1つ、

刹那的な判断力とそれに必要な予見力、

随伴的な筋肉運動を阻害していく。

 

故に事実に絡まりつく感情を捨て忘れ、

事実だけをある種冷酷に無情に捉え、

それを記憶とし運用することで、

恒常的なリラックス状態を生み、

連続的なイメージが極限の集中を呼ぶのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

追憶の彼方にある

磨き上げられた、

記憶のオペレーション

  

 

 

 

それが集中なのか。