捨て猫マスカルポーネ

問うとすれば、それは人の探究心だけ。旧来のブログ名を捨てて、2018年は新たな語感と共に改名。重力に負けるな。

【海の藻屑】情報とは何か?そこに主体的な選択と行動があると信じて

情報とはなんだろう?

 

触覚、嗅覚、視覚、聴覚、味覚、、、

種の存亡に関わる防衛、攻撃、或いは逃避のために、

感覚野に信号を送り神経を通じて運動を引き起こす表象や刺激が情報だとしたら、

情報は極めて即時的な感覚であるからして情報の正誤が問題になったり持続的な情報の探究は起こりえない。

 

 

これらは、一般に我々が扱う情報とは性質を異にするだろう。

 

我々が情報と呼ぶそれは知覚や知識に変換され消化吸収されるものである。昨今話題となっている、ネットの情報問題もそれだ。

 

では、知覚として消化される情報とは先の生理反応、運動を伴う情報とは全く別種のものか?

と言うとそうではないだろう。

 

知覚もまた想像や想起を随伴しつつ脳に集積された回路を辿った後に“選択”はするが、

行動するかしないかという抑性の選択も含め“運動を伴うもの”が知覚である。

 

それでは知覚から実際に想像したり行動したり、

脳内外を問わず模倣したりする際に、“何”が知覚と行動の間で選択させているのだろうか。

 

これは、情報の価値という言葉があるように、

個人が現在に捉える利害がその選択を左右するように思える。

 

例え未来や過去にまつわる情報だとしても知覚し、

選択し行動に移し替える過程の中に現在における利害が無意識に浸透している。

そして知覚によって捉えた利害が、最終的に行動可能か否かを選択の判断材料にしている。

 

利害とは一口にいっても 大なり小なりで、国境など明確な枠組みやルール、一定の安全保障がない時代の部族間の争いであれば他部族の動向情報、もっと原始的に言えば気象の情報ですら利害を超えた生死を分ける情報があり知覚があり行動があったのであろうし、個人から集団まで情報がもたらす利害の範囲は広い。

 

人間にとって情報はかつて、体内では生み出せず生きるために外部から摂取せざるを得ない栄養素のような役割であったが、現在ではおおよそ収斂しつつある。昨今の情報の多くは集合より個人の利害、さらに言えば利便であったり相対的な豊かさや不安、共感を充足させるもの、に近い側面もあるのではなかろうか。

 

情報が口承や伝承、文字や書物の書き写し、活版印刷による複製、情報のアクセスに制限があったからこそ情報発信者も限定され、発信者たる責任と代償を伴うものだったが、インターネットの登場で必要とする情報源に誰でも時間空間の制約なしに気軽に辿りつけ、誰でも発信できるようになった情報爆発時代である今。

 

情報発信における責任や信条は今、一体どこにあるのだろうか。先に述べたように仮に情報が知覚され行動されるものだとすると、情報発信者の原点もまた行動に還元されるものだろう。つまり、少なくとも行動の範疇にある明確な体験、想像、観察を経て発信された情報だからこそ他者にとって知覚から行動を引き起こす利のある生きた情報になるのでは、ということである。

 

超人工的なロジックを探求し商業的な側面に偏り上記のような背景もなく、ただ漫然と情報を垂れ流し、発信する当人に風説の流布のような明確な扇動意図はなくても、未必の故意に近い形で恐らく有益ではないであろうと潜在的な執筆現場のストレスがあったであろう。

 

しかし、それを超えて上層の商業価値傾倒に溺れていった結果、利便や感情の充足に関係する情報だけでなく生死に連関する情報まで踏み込んでいってしまったケースもある。

 

情報発信を生業とし、どういう形であるにせよ発信する立場における主体的な責任や信念を持つ人々から、虚ろな情報を濁流のように垂れ流している運営側に指摘を入れるのは当然の成り行きであろう。情報作成の過程や仕組みや権利侵害、情報の正誤よりも、そもそも情報とは?の思考の欠如こそが、発信者側であれ、もっと言えば受け取る側であれ、情報を巡る問題の根底があるように思える。

 

批判的な部分はさておき、取り直して情報とは何か?今一度、自分ごと化して考えたい。つまり知覚や行動を呼び起こし利害の内に選択される情報で、個人であっても集合であっても利のある情報とは?

である。

 

ここで敢えて疑う必要がないような、情報の正誤が情報に結びつくか?

という問いを考えたい。

 

つまり正しい情報が情報、正しくない情報は情報ではない、がなりうるか。

正しさは、情報であることにとっての十分条件であるか、どうかだ。

 

仮に完全に正しい情報というものを仮定した時に、それはどんな情報か?

 

例えば機器の取り扱い説明書、スペック比較、列車の運行情報、人工的に作られた対象に対する情報には完全に正しい情報というのは存在しそうだ。

 

一方で、自然物や人間の感覚に訴えかける情報に完全な正しさはあるのであろうか。

 

そもそもgoogleという情報の専門家ですら、完全な情報、或いは絶対的な情報は規定していない。

 

もし、仮にそのような情報があったとしたら検索結果などは存在しないし、完全に正しい情報は探し手や受け手の選択を必要とせず情報としての価値を結果的には失う。 完全に正しい情報とは事実に近いからだ。完全な正しさを一方的に決めるのは検閲になる。

 

数学や物理の世界における方程式や定理という極限の情報だったとしても正しいと思われていたものが根底から覆され学問史は進化しているのであるし、医学的にもこの薬がこの病名に効果があるとは言えてもすべての症例に必ずしも効果があるというわけでもなく、病気を引き起こす原因や、その原因の原因に対応する薬などは、とてもではないが結論付けられない。

 

つまり、完全に正しい情報というのは無いが、限りなく正しかろう情報はあるかもしれない、その程度だ。情報を定義する際に、正しいか正しく無いかはあくまでも必要条件であって十分条件でなく、正しさは情報とは何かという命題における公理でもない。

 

完全に正しい情報がないからこそ、

新たな行動を促すヒントとしての情報の価値や市場、サービスが発生する。未開拓の領域や研究があるからこそ、商業的にいっても不完全な市場に挑戦するのはすごくエキサイティングだと個人的には思うのだが、一方で絶対がないということを理由に、正しさを探求、追求しない情報の発信者の立場はあってはならない。

 

また受け取る側も情報に完全解があるという意識ではなく、その情報を知覚し行動に移す時は主体的な判断とそれを選択した責任が原理的には伴うという厳しさを許容しつつ、時に情報を疑い自身の内にある経験や記憶、想起に基づいて選択行動する過程の連続に多様性と個性が生まれるということを信じたい。

 

今までにない新しい情報で、常識や前提を覆すがそれでいて正しかろう情報。情報がもたらす利の伸長を願いつつ果たして発信できるだろうか。

 

情報情報言い過ぎて本当につまらぬ戯言となった年の瀬である。

 

ドラマ逃げ恥は、本当に面白かった。

 

はん