【悲哀】集合と個の進化における終わりのない終わり
なぜ集合体が個人を否定するか
それは合理で言えば5×100と200×1では、
前者の方を優先するのが確からしいと言えるから。
ゆえに、集合は個人のチカラを分散する機能を持つ。
分散することで、
一つ一つ弱まった個のチカラ。
とはいえ個という感情の暴力性を、
良い意味でも悪い意味でも兼ね備えている。
その個を制御するために、
ルールや常識や組織といった枠組みが、
個のチカラを矯正し最適化という名のもとに均整される。
しかしその均整を支えているのは、
組織のチカラというものを信じていること。
勿論それ自体は正しいのだが、
一方、個のチカラをある種無理に抑えつけるという側面もあるであろう。
いわゆるどんなに優れた集合であっても、
ルールや常識、組織に完全はないので、
既存の枠組みを知った個がその枠組み自体に疑いをかけ、
時には破壊し創造し、より高次の集合を思考するであろう。
つまり、個を否定するのは、
人工的なルールや分散型のシステムの力学であって、
一定程度、集合の個よりも特筆した個であれば、
実際は、そういったルールなどの枠組みがなくても個のチカラを、
自由と責任を自分の頭で考え発揮できるバランスが備わっているであろう。
それはそれで、ある種特質した個の集合というのを仮定すれば、
理想的なシステムや文化と言えるかもしれないが集合が大きれば大きいほど、
実際的には処理しなればいけないパラメータが増えるので夢想に近い、
というのが現実的なところであろう。
さて、その理想を否定する集合。
個からみた集合の必要性の真意はむしろ、
集合の不完全性による個の混乱とそこに疑いをかける、
個と集合の成長であって、集合の強さ自体は目的にはなりえない。
集合に依存した個が弱体化した結果、
思考と行動のバランスを欠いていく末路、
つまり、枠組みがないとバランスが崩れてしまう個を生み出し、
守ることが目的という保守的な組織に変貌していく、という宿命がある。
集合によって個より強いチカラを出すつもりが、
分散され弱体化した個により構成されるために集合が傀儡化する、
集合の必要性と弱体化の病巣、それ故の個の跳躍は必然的であり、
終わりのない連鎖や歴史は、ある種、持続的な運命とも言える。
本来的な集合や組織とは、
枠組みやルールを規定しながらも、
様々な個を許容する寛容の集合にあり、
寛容の集合が個のチカラを集合の中で最大限伸ばし、
その寛容の集合と健全性への努力と亢進が集合の新たな文化に成り得る。
そう信じたい、個は確かに存在する故に。
私は学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。
天下は常識に富める人の多きに堪えない
森鴎外の言葉
集合の暗黙知たる常識とは、
弱い集合知を首尾よくする目的で作られているが、
それ自体は本当であるかといえば決してそうでない
常識という概念自体は本来は非常に難しく、
正解がない、という意味で常識には個それぞれに常識があって然るべきである
個それぞれの持続的な常識を発展させる前提が、学殖である、、、、と。
弱い集合知を疑い新たな課題を提示し実現するためには、
集合を覆っている常識ではなく自らで考え実行していく学殖が、
集合を高次の集合に進化させるために最低限必要なのであろう
とはいえ
民主主義は自然と独裁者を生む。全く自由の中から、横暴極まる圧政と奴隷制度をもたらす。
プラトンより
これも然り
集合と個の進化における終わりのない終わり
終わらないその先に、一体何があるのだろうか?
主体的に考えたいものだ。